2歩進んで3歩下がる、それが日常。
Posted by R.U.I - 2010.04.20,Tue
不幸とはなんだろう。
貧困が必ずしも不幸とは限らないように、裕福が必ずしも幸せとは限らない。
会社が倒産しようと不幸な事故に見舞われようと、本人が幸せだと感じているならばそれは明らかな幸福だろうし、その逆もまた然り。
詰まるところ幸も不幸も非常に主観的な問題であることは疑いない。
加えて、一生涯の全てが不幸であり続ける人も、幸せであり続ける人もいないだろう。例えば仮に、一切合切の幸せがなく、生涯不幸であり続けた人が居たとして……、それは彼にとっての「日常」であって不幸ではない。主観的に「自分が不幸だ」と感じるのは、必ずそれ以上の幸福を知っているからであって、幸福とは言わないまでも、不幸のレベルに上下があれば、「比較的不幸でないとき」は彼にとっての「幸福なとき」に成り得る。尤も、それは大概有り得ない前提を無理に通した仮定の話であり、如何なる人生を送る人であれ、一生の間に――それが長ければ長いほどに――少なからず幸福だと感じる瞬間はあるはずだが。
しかし前述した通り、バランスは人其々であっても、必ず幸福な時があれば不幸な時があるわけだ。
客観的な視点では、きっと恵まれた環境で生活を営む私も、そして凡そ主観的にも幸福な人生を謳歌している私も、多分、恐らく、今この瞬間だけは微かなる不幸に見舞われていると思ってもいいのだろう。
……ソフトクリーム落とした。゜(ノД`)゜。
貧困が必ずしも不幸とは限らないように、裕福が必ずしも幸せとは限らない。
会社が倒産しようと不幸な事故に見舞われようと、本人が幸せだと感じているならばそれは明らかな幸福だろうし、その逆もまた然り。
詰まるところ幸も不幸も非常に主観的な問題であることは疑いない。
加えて、一生涯の全てが不幸であり続ける人も、幸せであり続ける人もいないだろう。例えば仮に、一切合切の幸せがなく、生涯不幸であり続けた人が居たとして……、それは彼にとっての「日常」であって不幸ではない。主観的に「自分が不幸だ」と感じるのは、必ずそれ以上の幸福を知っているからであって、幸福とは言わないまでも、不幸のレベルに上下があれば、「比較的不幸でないとき」は彼にとっての「幸福なとき」に成り得る。尤も、それは大概有り得ない前提を無理に通した仮定の話であり、如何なる人生を送る人であれ、一生の間に――それが長ければ長いほどに――少なからず幸福だと感じる瞬間はあるはずだが。
しかし前述した通り、バランスは人其々であっても、必ず幸福な時があれば不幸な時があるわけだ。
客観的な視点では、きっと恵まれた環境で生活を営む私も、そして凡そ主観的にも幸福な人生を謳歌している私も、多分、恐らく、今この瞬間だけは微かなる不幸に見舞われていると思ってもいいのだろう。
……ソフトクリーム落とした。゜(ノД`)゜。
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