私達webデザイン学科はグラフィックデザイン科と合同で、五月下旬に山梨県清里へと研修旅行に行きました。
以下、そのレポートとなります。
初日は晴天でしたが、以降天気は芳しくなく、雨に混じって霧も立ち込めることもありました。
が、出発前に言われていたほど肌寒さを感じることもなく、普段どおりの服装でも問題なく過ごせました。
デジタルカメラのSDカードを入れ損ね、写真撮影に精を出すことは出来ませんでしたが
交流の面では、web科の先輩方と楽しくお話をする機会や時間が沢山あり、とても楽しく過ごすことができました。
また、清里現代美術館も案外遠く、帰りのタクシーも出払っていて乗れないとのことで、日頃の運動不足を
少しは解消することが出来たのではないかと思います。
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清里現代美術館では、沢山の絵や本は勿論ですが、楽譜が一面に飾られていたのが非常に印象的で、
その作者について調べました。
ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日 - 1992年8月12日)は
アメリカ合衆国出身の音楽家。作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって、音楽の定義をひろげた。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。
誕生-少年時代 [編集]
カリフォルニア州のロサンゼルスに生まれる。父のジョン・ミルトン・ケージ・シニアは発明家で、母方の叔母と叔父には音楽家がいる。父は1912年に潜水艦を建造して当時の世界記録を更新したが、ガソリン・エンジンだったため兵器には採用されなかった。ケージは家族の転居によって多くの学校に通い、サンタモニカでピアノを習いはじめる。ロサンゼルスのハイスクールを優秀な成績で卒業し、クレアモントのポモナ・カレッジに入学するが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。
1930年代-40年代 [編集]
1930年にパリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだのち、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存していない。31年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに頼み込んで音楽を学ぶ。のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。1933年から、現存する最初の作品を創る。1937年の文章「音楽の未来 クレイド」(『サイレンス』所収)では、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどのアイディアを述べている。
1940年に、グランドピアノの弦に異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで音色を打楽器的なものに変化させたプリペアド・ピアノを考案する。1942年にマックス・エルンストの招きでニューヨークに出て画家たちと親交を持ち、1944年、のちに生涯のパートナーとなるマース・カニンガムとの最初のジョイント・リサイタルを行なう。45年からの2年間、コロンビア大学で鈴木大拙に禅を2年間学び、東洋思想への関心も深める。1948年にはノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとり、同じく教師であったバックミンスター・フラーや、生徒のロバート・ラウシェンバーグと交友を持つ。この時期の代表作に、『プリペアド・ピアノの為のソナタとインターリュード』(1946年 - 1948年)などがある。
1950年代-70年代 [編集]
1951年、ハーバード大学で無響室を体験する。ケージは無響室に入ったときに体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうと考えた。この体験は作風に大きな影響を与える[1]。1954年に、ストーニー・ポイントで菌類学の勉強をはじめる。1950年代初頭には中国の易などを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、さらに演奏や聴取の過程に偶然性が関与する不確定性の音楽へと進む。やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』や、何をしてもよい『0分00秒』などを生み出した。この時期には、芸術運動のフルクサスとも関わりをもっている。
1963年、ニューヨークにてエリック・サティの『ヴェクサシオン』を上演する。世界ではじめてサティの指示どおりに840回の反復を行ない、演奏は18時間にわたった。また、サティの『ソクラテス』から派生したピアノ曲『チープ・イミテーション』(1969年)を作曲している。